2009年6月16日

武士の殉死

主君が討ち死にしたり、敗戦により腹を切った場合、家来達が後を追って、討ち死にしたり切腹することや、または、その場にいなかった場合、追い腹をすることは自然の情及び武士の倫理として、早くから行われていた。中世以降の武家社会においては妻子や家臣、従者などが主君の死を追うことが美徳とされた。主君が病死等自然死の場合に、追い腹を切る習慣は、戦国時代になかったが、このため世代交代がうまく行かず、結局亡国の憂き目にあった大名家も多くいるとする説がある。

江戸時代に入ると戦死する機会が少なくなったことにより、自然死の場合でも近習等ごく身近な家臣が追い腹をするようになった。ところが、カブキ者が流行り、追い腹を忠臣の証と考える風習ができ、世間から讃えられると一層まねをするものが増えた。遂には近習、特に主君の寵童(男色相手を務める者のうち、特に主君の寵愛の深い者)出身者、重臣で殉死を願わないものは不忠者、臆病者とまで言われるようになった。この弊害に、名君といわれる大名は早くから気づいており、殉死を抑えようとしたが、あまり効果は無かった。なお、家を後継したばかりの若い主君では、先代の重臣たちに実務面で太刀打ちができず、主君を中心とした統一的な行動が難しくなる。そこで主家のために、先代に重く用いられたものは潔く死に、円滑な世代交代を実現する役割があったとする説もある。

明良洪範では殉死を真に主君への真の忠義から出た「義腹」、誰かが殉死するために自分も殉死しなければならないとする理屈に基づく「論腹」、殉死することで子孫の栄達を図る「商腹」に分類している。しかし、殉死者の家族が加増を受けたり栄達したケースは皆無であり、「商腹」は歴史的事実ではないとされる。

1663年、4代将軍徳川家綱、5代綱吉の治世期に幕政が武断政治から文治政治すなわちカブキ者的武士から儒教要素の入った武士道(士道)へと移行し、寛文3年5月(1665年)の武家諸法度の公布とともに殉死の禁が口頭伝達され、天和3年(1683年)には末期養子禁止の緩和とともに殉死の禁は武家諸法度に組み込まれ本格的な禁令がなされた。

『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
殉死という武士の倫理、かっこいいですね。

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